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MASAYOブログ#9 世のため人の為

私の母は山梨県生まれ。父と出会い東京で生活していたが、父が里の家族から呼ばれて、あれ よあれよと母は予想もしていなかった大分県での生活が始まった。ある時は喫茶店のお手伝い、 ある時はタクシー運転手さんの食事を作る寮のおばちゃん。そして私が生まれてからは男子大 学生の“下宿屋のおばちゃん”だった。

私は下宿屋の娘。20人近くの兄ちゃん達と同じ釜の飯を食べていた。
実家の2階と、実家の前の建物に下宿の兄ちゃん達が住んでいた。

風変わりな兄ちゃん集団は、私の小学校の運動会に応援に来てくれていた。その当時は家族で 集まってお弁当を食べていた。大人はその時間アルコールを楽しむすごい時代だ!
その日のでっかいお弁当を作ったのも母だった。

食べざかりの男子の食事を1日3千円に収まるように朝からその日のメニューを考え、そのメ ニュー決めが終わると予算内で買い物。帰宅後、デカい鍋とどデカいお玉を使って汗だくで料理 をしていた。

醤油は一升瓶で、私はそれが当たり前だと思っていた。スーパーで見ると普通のお家はお手頃 サイズを使っているのか!!

それを知ったのは自分で料理を少し始めた大学生の頃だった。
母は大人の雑誌が大量にある兄ちゃん達の部屋も掃除してた。

令和の時代なら勝手に部屋の 掃除をするなんてありえないだろう。 その時代は、部屋に入り掃除機をかけてくれるおばちゃんは感謝されていたようだ。

うちの下宿屋は3回火事に見舞われた。
3歳の頃の記憶が私にあるが、火事と分かった時、父が姉と私を抱いて外に出て、母は兄ちゃん 達を起こしに走った。

兄ちゃん達は2階から飛び降りていた。 中には一升瓶の焼酎とおつまみの缶詰を抱えてる兄ちゃんもいた。

3回火事になり、家は焼けたが、人は誰も焼けなかった。
でも、母は大事なお子さんを預かってる兄ちゃん達の親御さんに申し訳ない気持ちでいっぱい だったと後から聞いた。

そうだよなぁ。 下宿屋さんも大変だな。
高校生まで実家に住んでた時は、 「下宿屋ってすごい!」「大変!」とか全然思わず、私にしたら母は「下宿屋を好きでやってるんだ ろうな。」「下宿屋のおばちゃん似合ってるな。」と軽く思っていた。

兄ちゃん達の誕生会で飲み、土手で飲み、クリスマスで飲み、キャンプで飲み。何かと飲み会をし ていた! 母の発案だったのか、兄ちゃん達が盛り上がって始まったのか分からないけど、母の料理は特 別な日は少しお肉が多かった。

我が家の焼肉の日は、5枚のミニサイズのお肉とたっぷり野菜。それが『ザ・焼肉』だと思ってい た。高校生の時に焼肉屋でお手伝いをした時に野菜は影の役者だと知った。

特別な日は、何とかやりくりしてお肉出してたんだろうなぁ。 兄ちゃん達が卒業する時、母も兄ちゃん達も泣いていた。
おばちゃんに!! と、卒業生が贈ってくれるのが恒例になっていたものがある。

壺だ。

母は焼物が好きで、割れるのを恐れず兄ちゃん達にもお気に入りの、値段の良さげなお皿を出し ていた。 母の焼物好きを知ってる兄ちゃん達はいつからか卒業の時に贈ってくれるようになった。

略してそこから40年・・ 母は去年天国に旅立った。
亡くなる直前に、全国に散らばっている下宿の兄ちゃん達に、母の命があと一カ月と言われてい る事。母に今の兄ちゃん達の近況を教えてあげたい旨をお伝えしたく手紙を書いた。

忙しい中、すぐにいっぱいのお返事をもらった。 孫との写真付きのお手紙や母の好きなワインまで届いた。

頂いたお手紙を母が意識が無くなる前に、横に座って読んだ。 母は声が出にくくなっていたが、1人1人のエピソード、性格、お里のご両親の事。 幻覚や幻聴が続いているのに、下宿生の事はしっかり覚えていてびっくりした!

手紙の内容がまた楽しかった。 やんちゃですみませんでした!という謝罪や、母が午前様に扉を開けて帰って来ても「お帰り」と 笑ってご飯を出してくれて嬉しかった事。 勉学以外の事に夢中になり留年した思い出。

下宿があったから今の自分がある事。
母はその言葉を聞いて、 「とんでもないお土産をもらったわ!」 「どうしましょう?困ったわー。」 と言っていた。
母は考える人なのだ。

「考える人」の像が母の顔に見える。
悩みの人なのだ。 いつも人の事で悩んでいる。
それがまるまる母なのだ。

私の知ってる母は、 多くの時間を人の為、夫の為、子供の為に使っていたと思う。 

亡くなる前に 「まだ聞こえてますよ!好きな音楽かけてあげて下さい。」と看護師さんに言ってもらった。
姉と考えたが分からなかった。

無趣味さん。 お友達いないさん。 そして、 それでも良いさん。
音楽ではなく、普通に姉と会話をし、家族の愚痴や、子供らの話をしてた。 病室には好きな物を持ってきて良いと言われたが分からない!お皿?壷?

桜が大好きだったが夏真っ盛りなので持ち込めず。桜以外でも花は好きだったので生花を飾るお 許しを頂き置いた。
それと、孫と下宿生との古い写真。 実は下宿生の写真も手紙も最後に母に見せるのを迷っていた。

「働き過ぎて家族といれなかった。バカみたい。」 「もう、死ぬまで仕事で食べ物の事はしない!」 「1人暮らしになったら買ったお惣菜で生きる!」

と、下宿屋をやめてから何度か言っていたから。それだけ大変だったんだろうな。

でも下宿屋をやめてからも、好きなお皿に料理を盛ってはお客さんに出していたし、 お惣菜を買う事もあまりなく、料理をしていた。

家族といれなかったというのは、私が病気で看病が重なってた時の事だろう。
最後の最後。 母は言った。

「あー。皆んな元気そうで良かった。下宿やって良かったんやね。」 その言葉に私は救われた。

私の病気のせいで母の下宿屋人生を否定させてしまってる!! と、思っていたからだ。

母の死に接して、人の為に生きようが 自分の為に生きようが 子供の為に生きようが良い、悪いはないと思った。
まずは自分。 自分の土台を、しっかりしてから・・・。 とよく聞く。 まったくその通りだとも思う。 子供にもそうあって欲しい。

母は周りの人の為に多くの時間を費やしたのが、 それが母の人生で、母がそれをよしとして、 最後は納得して死んでいったように見えた。

人の為に生きて悪い事はない!

私のこれからを人生思うと、 「まず自分幸せになってから人の事をする。」 という順序は気が遠くなる。

もう同時進行でいいですか? 私も人生の折り返し地点を過ぎました。
身体を1人で動かせるまであとどのくらいだろう。
ヨガをする。 ヨガを学ぶ。 ヨガを伝える。

ヨガをもっと実践し、もっと学ばないと人に伝えられないと思っていた。 しかし、いつがその時なのか、切りが良い時など分かるだろうか。

残りの人生、 誰かの役に立つ事ができたらすごく幸せだ。
ヨガと出会い、自分が葛藤の中にいる事を知り、 その中で苦しむだけでなく、その葛藤を糧にしてきたこと、これからもそれが出来ることを知った。

本当は自由なのに、葛藤や迷いで自由を感じられなくなってしまってる事も分かった。 『誰もが本来自由で可能性に満ちている』

ヨガを学びつつ、自由を実感しつつ、お伝えしつつ、 周りの方の為に少しなりつつ、 これから生きていけたらいいなと思う!
そして、母もそうだったと納得。 人の為が自分への納得にもなり、自分の人生を生き抜いた。

人の為に生きた母。 そして、それが自分の道だと、自分の人生に自分で〇をした母。

母はの最後の日々は人生で経験したこと全てに、1つ1つ納得印を押していたように思う。

葛藤もあっただろうけど、 静かに心を鎮めていく母を私は見ることができた。

私も自分の人生に◯をしたいな。

できれば死ぬ時ではなく、今日も〇をしたい。

悩み癖は母からしっかり受け継いでいるが、 そこから何かが生まれるなら悩むのもいい! 悩んじゃえ! そして悩んだ後は何かを生み出すぞ!

葛藤したら、その後は自由に包まれている事を感じたい・・・
キチキチ頭で考えた順番の通りには行かなくても、順番通りではないのが自然なのかも。

そして人の為にもなりたい!
欲張りさんだけど、それでも〇。

人の為に生き、火事にあおうが逞しく生き切った母ちゃん。 自分への〇の仕方を最後に教えてくれた母ちゃん。
お母さん。

私も逞しく生き切りたいから、しばらくはそっちに行けないけど、心配しながらそこから眺めてて ね!!

【体力アップヨガ】 毎週水曜日 12時‐13時 (コミュニティクラスです。)
※3/6(水)は諸事情によりお休みです。 急なお休みで申し訳ありません。

京都のヨガスタジオTerasu

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