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【読むヨガ|雷乃収声】「する」から「ある」へ
秋分を迎え、夏の間、空に響いていた雷の音が少しずつ遠ざかっていく頃。
七十二候では、この季節を「雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)」と呼びます。
前回は、雷がその声を収めていく季節から、「静まっていくこと」について書きました。
今回はそこからもう少し、ヨガの時間について考えてみたいと思います。
「する」ことに囲まれている毎日
私たちは日常の中で、いつも何かを「する」ことに追われています。
働く。
考える。
学ぶ。
身体を動かす。
何かを達成する。
朝起きてから眠るまで、次に何をするかを考えながら一日を過ごしていることも少なくありません。
そして、それはヨガの時間にも入り込んできます。
ポーズをする。
身体を柔らかくする。
呼吸を整える。
心を静かにする。
いつの間にかヨガまで、「何かをするための時間」「何かになるための時間」になってしまうことがあります。
けれど、ヨガにはもうひとつの時間があります。
何かをするのではなく、ただ、そこにいる時間です。

Doではなく、Be
身体を動かしたあと、その身体を感じる。
呼吸を変えようとせず、今の呼吸を感じる。
心を静かにしようとせず、今どんなことが心に浮かんでいるのかを観察する。
そこでは、「もっと柔らかくなりたい」「もっと上手になりたい」「もっと心を静かにしたい」という目的を、いったん横に置いてみます。
Doではなく、Be。
何かをして自分を変えようとするのではなく、今ここにいる自分とともにいる。
ヨガには、そんな時間もあります。
静けさは、つくるものではない
雷乃収声の「収」という言葉は、この感覚とどこか重なります。
夏の空に響いていた雷は、「静かになろう」として、その声を収めるわけではありません。
季節が巡り、空気が変わり、やがて自然とその音は遠ざかっていきます。
私たちも同じように、無理に心を静かにしようとしなくてもいいのかもしれません。
「考えないようにしよう」
「落ち着こう」
「集中しよう」
そうやって静けさをつくろうとすることも、実はひとつの「Do」です。
身体を動かしたあと、ただ座ってみる。
呼吸を操作せず、そのまま感じてみる。
浮かんでくる考えを追いかけず、消そうともせず、ただ眺めてみる。
何かをしようとする手を休めたとき、少しずつ静けさが現れてくることがあります。
それは新しくつくり出した静けさではなく、忙しさや考え事の向こう側に、もともとあった静けさに気づいた瞬間なのかもしれません。
何者かにならなくてもいい時間
日常では、私たちはさまざまな役割を持っています。
仕事をする自分。
誰かと関わる自分。
何かを学ぶ自分。
期待に応えようとする自分。
どれも大切な自分です。
けれど、ヨガの時間くらいは、その役割を少し横に置いてもいい。
何かができる自分でなくてもいい。
昨日より成長していなくてもいい。
誰かに評価される必要もない。
ただ呼吸をして、身体を感じ、ここにいる。
何かをするから価値があるのではなく、ただ「ある」。
ヨガには、そんな時間があってもいいのではないでしょうか。
スタジオからのひとこと
私たちは、何かをすることで毎日をつくっています。
だから、Doを否定する必要はありません。
身体を動かすことも、学ぶことも、努力することも大切です。
ただ、ときどき「する」ことから離れて、「ある」ことへ戻る。
アーサナをしたあとに、身体を感じる。
呼吸法をしたあとに、自然な呼吸を感じる。
そして最後は、何もしない時間を過ごす。
雷がその声を収めたあとの空のように、何かをやめたときに初めて感じられるものがあります。
ヨガの時間が、何かを達成するためだけではなく、今ここにいる自分へ戻る時間にもなればと思います。
この季節は、DoからBeへ。
